こんにちは!sawa(@sawasan33333)です!
久しぶりに映画館に行ってきました。
見たのは『ミッドナイトスワン』。元SMAPの草彅くん主演の映画です。
草彅くんがトランスジェンダーという難しい役どころを演じる、という情報は以前からなんとなく耳に入ってはいたけれど。「見に行こう!」とまでは正直思っていなかった。
しかし。YouTubeにこの映画の予告がアップされていて、たまたまそれを見たんです。
泣いた。予告だけでしっかり泣いた。
この時から心のざわつきが止まらず、翌日の夜には映画館に向かい、映画を見終わって数日たった今もまだ心がざわついていて落ち着かない……。
ちょっとそこらへんを書きなぐっていこうと思います。
目次
ミッドナイトスワンの予告を見て
ミッドナイトスワンの予告はいくつかパターンがあって、私が見たのは15分もある長い動画。
「そんなにあるの!」と思ったけど、見てみるとマジであっという間。この時点で1本の映画を見終わったような気分になる。
んで。その内容は。
(ここからは予告のネタバレを含みます!)
草彅くん主演なのに草彅くんがいない
最初、女装した草彅くんが登場したとき、少し笑ってしまったんです。
「あー!草彅くんだ!女装してるー!」ってね。
国民的大スターの草彅くんですから。ぱっと見のビジュアルはやっぱり元SMAPの草彅くんなんですよ。
しかし。そんな大スターの草彅くんはそっこーで目の前からいなくなりました。
目の前にいるのは草彅くんではなく”女装している男性”になって、さらにトランスジェンダーである”凪沙”という名前の人間、になったんです。
ものすごいスピードでスクリーンの中から草彅くんが消えて、新宿のショーパブで働く凪沙という人間が「昔からずっとここにいましたけど」って言わんばかりの存在感を放っている。これマジでぞわっとした。
一果との共同生活で起こる変化
凪沙は自分のためにお金を稼いで生活し、自分のために生きてきました。
そんななかで母親からネグレクトされている親戚の女の子”一果”と共同生活をすることになり、子供嫌いの凪沙は面倒でしょうがない態度で接します。
しかし。一緒に生活していく中で変化が起こります。予告を見えもらえればわかると思いますが、凪沙の顔つきや仕草、行動が母親そのものになっていきます。
一果の髪を梳かす様子は母親そのものだし、ハニージンジャーソテーのくだりなんて沸々と湧き上がる母性が垣間見れる名シーン。
「お母さん」と間違って呼ばれたことに、そりゃあもう嬉しそうに笑う凪沙の姿が頭から離れない。その後の浮き足立った様子も。
また、一果の心情も変化していきます。育児放棄され、自分のために生きてこれなかった日々は、バレエに夢中になることで希望の光に溢れていきます。
一果には素晴らしいバレエの才能がある。それを目の当たりにした凪沙は、次第に自分のためではなく一果のために生きるように。
そうやって、二人の間には特別な絆が生まれます。
いろいろあったけど、このまま二人で生きていくのかな……なんて感じで終わったのが、予告。
二人のことがもっと知りたい。二人のその後がどうなるのか気になってしょうがない。
こんな気持ちが頭の中を支配しまして、次の日には映画館にいました。
本編を見てすっきりするかと思いきや。予告とはまた違った感情が渦巻いて余計に心がざわついてます。笑
(ここからは本編のネタバレを含みます!)
ミッドナイトスワンの本編を見て
まず言いたいのが、映画見終わったあと席から立てなかった、ってこと。
いつもならエンドロール中にもぞもぞ動き出して帰り支度はじめて、場内が明るくなったら席を立って帰る、って感じなんだけど。
この日は明るくなっても動けなかった。エンドロール中も体が固まったまま。1モゾもしてない。(1回もモゾモゾしてないってこと。笑)
それは私だけじゃなく他のお客さんもそうだったようで、場内が明るくなって少ししてから「え、動いてもいいよね?」って感じで恐る恐る動き始めてた。
みんな、互いに顔を見合わせながら挙動不審ぎみに去っていってて面白かった。笑
でも、すごい気持ちわかる。そうならざるを得ないと思うこの映画。
本編はどんな感じだったのか。内容紹介をするってよりは、私が吐き出したいことだけをピックアップして書いていきますね!笑
やっぱり草彅くんがいない
予告同様、やっぱり草彅くんがいないんです。いるのは凪沙という人間。
マジでリアルなんだよ凪沙が。女装しても残ってしまう男性っぽさやねちっこい声のトーン、それなのにやたら女っぽい仕草、とか。
以前から草彅くんの演技力の高さは知っていたけれど、ここまで自然に”人”になりきれることにゾッとしてしまう。
さらに、一果役の服部樹咲ちゃんは新人なのに一果そのものだし、水川あさみはガチで一果の実母だし、バレエの先生は元宝塚じゃなくただのバレエの先生だし、なんならちょっとのシーンしか登場しない凪沙のお母さんも本当に実在するお母さんのよう。
この映画、役者がいないんです。みーんな実在する人間に思える。
「本当に生きてる人たちの様子を神の視点で見ている」ような感じ。
だからなのか、映画見終わって数日たつけど、もう一度見にいきたいってよりは、凪沙や一果に会いにいきたい、って思うんだよねぇ。
本編を見終わった直後は「もう見にくることはないかな」と思ったのに、日を追うごとにまた映画館に行きたくなってる自分がいます。
多くを語らず、見せる
誤解を恐れずに言うと、トランスジェンダーの人生って”激動の人生”的なイメージがあって。
それはトランスジェンダーが抱える生きづらさや苦悩からくるのが大部分で、たいていは夜の街や裏の世界で働いて、陽の目を見ることのない感情が渦巻く日常を生きる……ってイメージを勝手に持ってた。
実際、ミッドナイトスワンの中でも凪沙が新宿のショーパブで働く姿やニューハーフヘルスにおちる姿、性転換手術、その後のケア不足による後遺症なんかがリアルに描かれていて。
それなのに。
そこに生々しいリアルさはなくて、むしろ「もっと過激に描けたはずなのになんでスルーするんだろう」と疑問に思ったんです。
例えば、凪沙が注射を打った後にフラついたり体が火照るシーンがあるんだけど、この症状について映画の中ではいっさい触れていません。そんな状態の凪沙がスクリーンの中にいるだけ。
これ、おそらく女性ホルモンの注射を打ったことによる副作用のはず。
ここをもっと掘り下げて描くことで「トランスジェンダーはこんなに辛いんだ、こんな苦悩を抱えて生きているんだ」とより訴えることができるのに、この映画は淡々と一連のシーンを見せるだけなんです。
ほかにも。「なんであたしばっかり」と一果の前で泣き崩れる凪沙のシーン。その後、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま煙草を吸いながら水槽の金魚を見つめるうつろな目。
お金を溜めている貯金箱。ショーパブでの客とのやりとり。男に貢ぐためヘルスにおちたトランスジェンダーの友人。
強く訴えることができるポイントが多々ちりばめられているのに、この映画はそれをしない。凪沙の日常や周りの人間模様をただ見せるだけ。
それなのに不思議とリアリティあるんだよね、この映画。
凪沙の苦しみが現実味をもって目に飛び込んでくるし、徐々に生まれる希望の光のようなものも敏感に感じとることができる。その後の絶望もね。
これは凪沙にかぎったことじゃなくて、一果や実母、友達のりんも同様。「誰しもが孤独と戦いながら生きている」ことが刺すような痛みのように伝わってくる映画です。
残酷なのに美しい
トランスジェンダー、ネグレクト、夜の街、性の葛藤、自殺……ミッドナイトスワンで登場する内容は残酷な現実ばかり。
一果が凪沙に会いに行ったシーンは衝撃的で、呼吸するのをしばらくの間忘れてた気がする。
それなのに。美しく思えてしまうシーンが多々、ある。
凪沙や一果はもちろん、友達のりんが屋上で踊りながら最後……のシーンも、その裏にある孤独や残酷さを知っているからこそ(不謹慎だけれど)美しく見えてしまった。
凪沙が一果を取り戻しにいったときの水川あさみの演技も美しさを感じた。めっちゃ怒って怒鳴ってるシーンなんだけど、実の母親だからこその強さや必死さ、一果への愛情が垣間見れたきがして。
美しさと残酷さは紙一重なのかもしれないねぇ。
これ、絶対見た方がいい映画だよ
内容が内容だけに「めっちゃ面白い映画だよ!」とは言いきれないけれど。
でも、絶対に見るべき映画の一つだと確信してます。こんな映画に出会えること滅多にないんじゃなかろうか。
ただ一つだけ、心にとめておくべき事があると思ってて。
ミッドナイトスワンを鑑賞することで「トランスジェンダーを理解した」「LGBTの問題がわかった」とは思わないでほしい。
日本はセクシャルマイノリティへの理解が他の国よるはるかに遅れをとっている、と言われています。
この映画はそういった問題を解決するようなものじゃないから。見て初めてスタートラインに立った状態だから。「よーい、ドン!」の「よーい」らへんじゃないかと。
なので、多くの人がミッドナイトスワンを見てスタートラインに立つことで、よりよい社会の実現に繋がるのでは、と思ってます。(壮大な話だなぁ)
ここまで長々書いてきて結局何が言いたいか、っつーと。
自分の分より多く盛り付けしたハニージンジャーソテーにパクつく一果を愛おしそうに見つめる凪沙にまた会いにいきたいなぁ、ってこと。
ではまた!